タカユキの三日坊主ブログ

深淵を覗く時、深淵を覗いているのだ

共産党を支持する人って?

ずっと前から疑問に思っていたことがある。

共産党支持者は、共産主義者なのか?』ということだ。

 

まず、共産党の公式ホームページのQ&Aを見て、共産党の政策を確認したい。

 

 

Q:ホントに共産主義をめざしてるの?
A:ハイ、めざしています。資本主義が未来永劫つづく制度だとは考えていないからです。
 私たちのめざす共産主義社会は、旧ソ連や中国とはまったくちがいます。中国はまだ社会主義に到達してなどいません。専制政治に変質した旧ソ連はもちろん論外です。「人間の自由」を本格的に全面的に実現する社会、それが私たちがめざす共産主義です。

 ただ、日本ですぐに共産主義にすすむ条件はありません。まずは、あまりにいびつな"ルールなき資本主義"をただす民主主義的な改革が当面の目標です。

「こんどは共産党かな? でも...」というみなさんへ 共産党AtoZごらんください - 特集

 

これを見れば、共産党はその名の通り、共産主義を目指しているということになる。

ならば、共産党支持者は皆、共産主義者なんだろうか?

実はそうでもないんじゃないかと、個人的には思っている。

共産党はその主義主張からして、自民党とは絶対に相容れない存在である。

だから、「自民だけは何がなんでも嫌だ!」という人が、反自民の旗印として共産党に投票することもあるだろう。

だが、それであっても、共産党を支持するのは、はっきり言ってありえない行為だと私は思う。

その理由はいくつかあるが、一番大きな理由は安全保障に対する思想である。

 

〈問い〉 日本共産党は軍隊について、どのようなお考えをお持ちでしょうか? 仮に政権をとった場合には、軍隊をどのように位置づけ、対応されるのでしょう。綱領を拝見してもそれらしきことがでていないのでおたずねします。(三重・一読者)

〈答え〉 日本共産党は、綱領で「社会主義共産主義の社会がさらに高度な発展をとげ、搾取や抑圧を知らない世代が多数を占めるようになったとき、原則としていっさいの強制のない、国家権力そのものが不必要になる社会、人間による人間の搾取もなく、抑圧も戦争もない、真に平等で自由な人間関係からなる共同社会への本格的な展望が開かれる」と、国家権力の一部である軍隊が不必要な戦争のない未来社会を展望しています。

 軍隊の廃止や戦争の根絶が実現すれば、人類史の新たな段階を画することになります。

 エンゲルスは、将来の共産主義社会で常備軍(軍隊)が不必要になる最大の理由について次のように述べています。

 「今日の社会になくてはならない、きわめて費用のかかる施設のひとつは常備軍である。常備軍は、住民中のもっとも強壮で有用な部分を国民から奪い、このようにして不生産的にされたその部分を養うことを強制する。常備軍がどんなに費用がかかるかを、われわれはわれわれ自身の国家予算で知っている。すなわち、年に2400マルクを要し、もっとも強壮な働き手を20万人も生産から奪っている」「現在、文明国民が軍隊によって奪われている無数の労働力は、共産主義組織のもとでは労働に返還されるであろう」(「エルバーフェルトにおけるふたつの演説」、『マルクスエンゲルス全集』第2巻)。

 軍隊の廃止は、ばく大な軍事費の平和的活用という国家財政の画期的転換をきりひらくことになり、日本経済の国民本位の改革にとっても大きな意義をもちます。

 このような展望をふまえつつ、日本共産党は軍隊である自衛隊の措置について明らかにしています。

 いま、自民党はアメリカの世界戦略の一翼を担い、日常的に自衛隊の海外派兵ができるようにと、憲法9条を削除して、自衛隊を「自衛軍」にする「新憲法草案」(05年11月)を発表し、軍国主義復活をめざす動きを強めています。

 日本共産党は戦争や軍隊のない社会主義共産主義の社会をめざしますが、まず異常な対米従属と大企業・財界の支配を打破する資本主義の枠内での民主的改革をめざしています。

 自衛隊の海外派兵をやめ、軍縮の措置をとること、日米安保条約を廃棄した後、国民の合意での自衛隊の解消(憲法9条の完全実施)をすすめていきます。

「軍隊をどう考える」?

 

私は安全保障に対する考え方は大きく分けて4つに分類されると思っている。

  1. 日米同盟を強化するべき
  2. 日米同盟を現状維持するべき
  3. 日米同盟を解消し、自衛隊国防軍化するべき
  4. 日米同盟も自衛隊も解消するべき

これで言えば、共産党は4に該当することになるだろう。

なんというか、私は4だけは何があっても絶対にありえない思想だと思っている。

もし仮に共産党が政権を取ることがあったとしても、4が実行されることは絶対にないと確信している。

その根拠は、1994年に発足した村山内閣である。

村山富市の所属する社会党は、自衛隊日米安保原発を否定していたにも関わらず、政権を握った途端それらを180度変更し、肯定してしまったのだ。

連立政権であったがために多少の方向転換は仕方ないにしても、180度も転換してしまうのは如何なものか。

共産党社会党のようにはならないと、どうして言い切れるだろうか。

 

思想家の東浩紀はこう述べている。

他方で共産党にも入れる気にならない。理由は2つある。第一に共産党は本気で政権を取る気がない。それは政策一覧を見ればわかる。夢ばかりだ。第二に共産党の党是である護憲が承認できない。憲法は、国民が政府の行動を制約するために存在している(立憲主義)。だとすれば、憲法は、普通の国民が理解できる普通の日本語で書かれなければならない。一部の憲法学者だけが理解できるような特殊な用法があってはならない。そして普通の国民が普通に読めば、現行の9条は明らかに自衛隊の存在と矛盾している。この矛盾を放置し、一部学者の特殊な解釈を金科玉条のごとく掲げて(それは解釈改憲ならぬ解釈護憲と呼べる)、9条と自衛隊の両立を説く護憲は、すべて欺瞞だとぼくは考える。

「軍隊をどう考える」?

私はこの意見に全く同意である。

ただ一つ同意できない点があるとすれば、東浩紀改憲の必要性があると考えているにも関わらず、改憲勢力に対して投票をする意思がないということだ。

9条と自衛隊の両立を説く護憲が欺瞞だと言うのならば、改憲を訴える自民や維新などを支持するべきではないのだろうか?

 

それはともあれ、つまり私は何が言いたいのかというと、共産党は何のイデオロギーも持っておらず、党としての存在意義が「反自民」に成り下がっているようにしか見えないということだ。

 

 

ゲンロンカフェに行ってきました




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これなんですけどね、すごい豪華ですよね。

三浦瑠璃と津田大介東浩紀ですよ。

いつかはゲンロンカフェに行きたいと思ってたんですけど、もうこれ逃したらダメだなと思って。

でも、予約なんてしてなかったんで、ちょっと早めに行って当日券買いました。

で、中に入ると、もう凄い熱気。

もうこれ以上入らないってくらい。

本当に満員でした。

 

それで、しばらくしてから御三方が入場してきたわけですが、なぜだかまったく新鮮味がなくて(笑)

テレビとかニコ生とかツイキャスで見慣れてるから、なんかいつも通りというか。

まず、第一印象は、

津田っちイケメン!

三浦瑠璃、美形!

あずまん、ハゲかかってる!

でした。

 

さて、肝心の本題ですが、最初はトランプの話から入りました。

まあ、当たり前ですよね。

この企画自体、三浦瑠璃の新刊の宣伝が目的ですから。

その新刊がトランプのことについて書かれてるわけなんですね。

受付のところでそのサイン本が売ってました。

興味ないんで買いませんでしたけど。

 

それから、トランプの娘のイヴァンカ。

まあ、これは割とどうでも良かったです(笑)

BuzzFeedがイヴァンカをディスってる記事を書いて、左翼言論人が嬉々としてそれをRTして、三浦瑠璃はそれが気に入らなかったという話です。

その左翼言論人に津田大介も含まれていて、三浦瑠璃が津田を非難して、津田が弁明するという流れでした。

 

そこで休憩。

 

休憩明けにイヴァンカの話の続きをして、それからは主に沖縄の話をしていました。

なぜ沖縄から米軍基地はなくならないのか?

尖閣に中国が攻めてきたら、米軍は助けてくれるのか?

もし米軍が助けてくれなかったら、日本の世論はどうなるのか?

沖縄が日本から独立するとしたら、それには何が必要か?

などなど。

 

イベントの予定ではこの対談は

19:00〜21:30のはずだったのですが、なんだかんだで終わったのは23:30頃に…

2時間もオーバーしてるよ!!!

 

イベント終了後に、壁に書いてある著名人のサインを撮ろうと思ってたのですが、終電が近かったのでそそくさと帰路につきました。

 

それにしても…あずまんの髪が結構ヤバい(笑)

イベント中にあずまんが頭をポリポリと掻いたのですが、その後、髪型が凄いことになってて。

ニコ生のコメントで指摘されるまで、その凄い髪型のままで、思わず吹き出しそうになりました。

ヒトラーが生まれなかったら、第二次大戦は起こらなかった?

ヒトラーという政治家を選んだのは紛れもないドイツ国民である。

ヒトラーの思想に多くのドイツ国民は陶酔し、賛同した。

では、なぜヒトラーは、ドイツ国民の民意を得られたのだろうか?

 

1928年のナチス党はわずか12議席だった。

しかし、その後、ある出来事をきっかけにナチス党は大躍進をする。

1929年10月24日「暗黒の木曜日」にニューヨーク株式市場の株価が大暴落した。

世界恐慌である。

その影響はドイツにも波及し、3人に1人が失業者という状況にまで追い込まれる。

そして、1930年には107議席にまで一気に勢力を拡大する。

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ナチスの根本をなす思想は民族主義であった。

ゲルマン民族は世界で1番偉大で優秀な民族である」、と。

自信を失いつつあったドイツ国民にとって、ヒトラー率いるナチス党の主張はとても気持ちの良いものに聞こえたであろう。

そして、ドイツ国民の怒りの矛先は諸外国と、国内のマイノリティ人種に向かう...

 

だが、このような民族主義は別に珍しいものではない。

人は多かれ少なかれ、自分の所属する大きい枠組みにアイデンティティを求める。

それは出身の町であったり、市であったり、県であったり、高校であったり、大学であったり、国であったり、人種であったりする。

自分の立場が悪くなればなるほど、人はそういったものに縋るようになる。

 元々極右政治家は存在していて、不況などが契機となって、そういった政治家にスポットライトが当たる。

ドイツではヒトラーにスポットライトが当たったが、もしヒトラーが居なかったら、ヒトラーに近い人物にそのライトは当たっただろう。

 

イギリスのナイジェル・ファラージ

フランスのマリーヌ・ルペン

オランダのヘルト・ウィルダース

アメリカのドナルド・トランプ

 例を挙げるとキリがないが、極右政治家というのはどこの国にも存在する。

 

スポットライトがどこに向くのかは、国民次第である...

言語の「正しさ」は何で決まる?

まず、言葉は何のためにあるのか。

言わずともがな、コミュニケーションをとるためである。

例えば、日常生活を送る中で『相手の手元にあるリモコンを渡して欲しい時』があったとする。

そういう時我々は「リモコン取って」と言って、それを聞いた相手は手元にあるリモコンを渡すだろう。

これは『リモコン』という名称のモノがこの二人の間で相互に認識が一致してるから成り立つやりとりなのである。

極端な話、『リモコン』は別にリモコンという名称である必要はなく、『ああああ』でも『いいいい』でも構わないのだ。

コミュニケーションを交わす相互の関係で認識が一致してさえいれば。

 

最近、言葉の誤用や読み間違いについての話題がよく挙がる。

例えば『確信犯』という言葉。

実は

『悪いことであるとわかっていながらする犯罪』

ではなく

『信念に基づいて正しいことだと思い込んでする犯罪』

が本当の意味である、とか。

しかし、言葉の使い方が正しいとか間違っているとかって、誰が決めることなんだろうか?

 

ここで一種の思考実験をしたい。

元々、『正しい』意味で使われていた言葉があったとする。

しかし、年月が経つにつれて、その言葉は『誤用』されることが増えて、最終的にはその言葉を『誤用』している人しか居なくなってしまったとする。

そのとき、本当にその言葉の『正しい』意味を知っているあなたは、『正しい』言葉遣いをする必要があるだろうか?

相手が『誤用』をしているときに、逐一、「それは誤用だよ、本当はこっちの使い方が正しいんだよ」と指摘し続けるだろうか?

 

 

自衛隊はどうして憲法違反にはあたらないの?

軍隊、戦力等の定義に関する質問に対する答弁書

平成十八年十二月一日受領
答弁第一七二号

憲法第九条第二項は「陸海空軍その他の戦力」の保持を禁止しているが、これは、自衛のための必要最小限度を超える実力を保持することを禁止する趣旨のものであると解している。自衛隊は、我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織であるから、同項で保持することが禁止されている「陸海空軍その他の戦力」には当たらない。

なるほど。

自衛隊は、国を防衛するための必要最小限度の"実力"であるので、"戦力"にはあたらないということなんですねぇ。

 

よかった!自衛隊は合憲だ!

軍隊を持たない国

バチカン

国としての軍はないが、教皇直属の市国警備員と呼ばれる100人規模の警察と軍を兼ね備えた組織を持つ。主な武装は槍と催涙スプレーである。


リヒテンシュタイン

コスト面から1868年に軍を解体。国家警察は隣接する諸国(スイスおよびオーストリア)の軍と密接な関係を持っている。


コスタリカ

憲法では「恒久的制度としての軍隊を廃止」と常備軍の廃止を規定しているものの、有事には徴兵制を行い軍を組織できることになっている。また、7,500人規模のミサイルやヘリコプターも持つ地方警備隊を常時保有。イギリスの国際戦略研究所などでは、コスタリカの治安警備隊を含めた総警察力を「準軍隊」として扱っている。この準軍隊である組織の予算も隣国ニカラグアの国軍の3倍近くあり、ニカラグア側からは「軍」と形容されている。

 

パナマ

アメリカ軍のパナマ侵攻により1990年に軍が解体された。1994年改正の憲法で軍の非保有を宣言。警察や沿岸警備隊などの人員は11,800人以下に制限。ただし緊急時には、一時的な警察強化が可能となっている。

 

ハイチ

1994年の軍事政権退陣後に軍を解体。反政府武装勢力の台頭で国内が混乱した。国家警察軍(7,300人規模)を編成。ただし、書類上は軍は廃止されておらず、ミシェル・マテリ大統領は軍の再建を公約している。2012年5月に内務省が内務および国防省と改称され、国防軍の再編成の準備が進められている。

 

ソロモン諸島

1998年に部族同士の抗争から武力衝突が発生し、独力で解決できなかったソロモン諸島政府はイギリス連邦に救援を求めた。しかし2000年にクーデターが発生したためにオーストラリアとニュージーランドによる調停が行われた。2003年からオーストラリア・ニュージーランドが主導した太平洋諸島フォーラム(PIF)加盟国の警察・軍隊からなるソロモン諸島支援ミッション(英語版)(RAMSI)が派兵され、2013年まで駐兵していた。


ツバル


バヌアツ
モーリシャスの旗 モーリシャス - モーリシャス警察軍(8,000名規模)のみであるが、その指揮下に特別機動隊(英語版)(1500名)といわれる、軽歩兵レベルの戦力・装備を持つ治安部隊を保有している。

橋下VSマック赤坂について

録画してあった橋下羽鳥の番組を観た。

今回はいつもとは少し趣向が異なり、橋下とゲストで一対一で討論を行うという企画のようだ。

まず最初のゲストはマック赤坂

名前だけなら知っているが、実際にこういう対談などを見るのは初めてだったので、少し驚いた。

まず、どういう政策を訴えているのか?とかそういう根本的なことすら知らなかったし。

まず最初の議題は安全保障についてだった。

マック赤坂の主張はこうだ。

「そもそも自衛隊日米安保は何の牽制にもなっていない。」

自衛隊日米安保も必要ない。」

「中国やロシアや北朝鮮が攻めてくることはない。」

まあ、よくある護憲論者の主張だなあと思った。

それに対しての橋下の反論はこうだ。

「平成27年には航空自衛隊は873回もスクランブル発進をしている。もし自衛隊日米安保がなくなれば、中国やロシアの戦艦が日本の領海を平気で行き来するようになるだろう。僕はそれは嫌だ。」

自衛隊日米安保は抑止力になっている。」

「『相互破壊確証』で均衡が保たれているのが今の国際社会の現状。」

という、、、

安全保障の討論になるとこのような流れはよくあるのだが、はっきり言って左派論客の分が悪いように思える。

だいたい、軍隊やそれに準ずる組織を保持していない国が世界にどれだけあるのか?

軍事的同盟を組んでいない国がどれだけあるのか?という話である。

理想論を語るのなら、そりゃあ世界から軍隊は無くなった方がいい。

しかし、しかしである。世界から軍隊が無くなることは残念ながら無い。

護憲派の主張は『頭がお花畑』であると言わざるを得ないだろう。

民主主義ってなんだ?

民主主義
democracy
政治一般,政治原理,政治運動,政治思想などの形態の一つ。語源は demos (人民) と kratia (権力) とを結びつけたギリシア語の demokratiaで人民が権力を握り,みずからそれを行使する政治を意味した。
出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

民主政治と対をなす言葉は、おそらく独裁政治だろう。

社会の構成員である国民みんなで話し合って物事を決めるという理念の民主政治に対し、国のトップに君臨する人間がトップダウンで決断を行うのが独裁政治だ。

 では、民主政治と独裁政治はどちらの方が優れているのだろうか?

 

一種の思考実験をしよう。

 羽生善治と、日本国民(多数決)で将棋の対局をしたらどうなるのか?

日本国民側は一手一手多数決をとって、最多得票の手を指し続けるものとする。

これは間違いなく羽生善治が勝つと容易に想像がつく。

それに一手一手多数決をとって集計なんてしていたら、考慮時間がいくらあっても足りないだろう。

つまり、衆愚の多数決よりも、優秀な人間1人の下す決断の方が最善に近いし、俊敏であると考えられる。

 

しかし、世界を見渡してみると、独裁国家よりも民主国家の方がはるかに多い。

それはなぜだろうか?

その1番の理由は、民主主義の方が権力の移行がスムーズだからであると思う。

独裁は権力が集中しているため、その権力を移行するのが大変だし、誰に移行するのか?という問題も生じる。

その独裁者の子孫であるのか、その他の権力者であるのか…

しかし、有能なリーダーの子孫もまた有能とは限らないという問題もある。

そういった権力闘争で国が分断されてしまうといった事例も歴史の中では数多く起こった。

これが独裁の1番大きな欠点だ。

 

権力が集中していないがために国のリーダーが簡単に挿げ替わるというのは、民主主義の最大の特徴であり、利点であり、欠点でもあるのかもしれない。

モノの価値は誰が決めるの?(2)

まずこの絵を観てもらおう。

 

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この絵はジャスパー・ジョーンズが描いた「フォールス・スタート」という作品で、2006年に8000万ドル(約65億円)で落札されたものだ。

これだけ高い価格がついているのだから、おそらく価値のある絵なんだろうなあと推測する。

なぜ"推測"なのかというと、この"ペンキをぶち撒けただけのような鮮やかな色彩のラクガキ"が本当に価値のあるものなのかどうかが自分には判断できないからである。

このような判断をするのは自分だけではないはずだ。

多くの人が、『みんなスゴイって言ってるんだし多分価値のあるものなんだろう』という、ひどくあやふやな空気に流されている。

 

ニュー速嫌儲板にこんなスレッドが立っていた。


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『あらゆる批評家が賞賛するが大衆は見向きもしない作品、あらゆる批評家が酷評するが大衆の誰もが見に行く作品、どちらに価値があるか?』というタイトルである。

この後者の『あらゆる批評家が酷評するが大衆の誰もが見に行く作品』が、興収は235億円を突破した大ヒットアニメーション映画『君の名は。』のことを指しているのは明白であろう。

それだけの興行収入を挙げているにも関わらず、この映画は多くの批評家に酷評されている。

その批判の主を占めるのは「大衆にウケそうな要素を詰め込んだだけの低俗な映画だ。」という声である。

だが、その低俗であるとか高尚であるとかは一体誰が決めることなんだろうか?

大衆にウケるのを目的として作られた作品は低俗で価値のないモノなんだろうか?

モノの価値は誰が決めるの?

モノの価格は何によって決まるのかご存知だろうか。

それは、需要に対してどれだけの供給があるか?である。

供給が少なくて需要が多いモノの価格は高くなり、供給が多くて需要が少ないモノの価格は安くなる。

共産主義圏など一部の国ではこの法則は適用されてはいないが、少なくとも資本主義経済においては多くの場合でこの法則がまかり通っている。

 "多くの場合で"ということは、この法則が当てはまらないケースもあるということだ。

代表的なケースは『コンサートのチケット』などだろうか。

 有名アーティストのコンサートのチケットなどは発売開始後数分で全てが売り切れてしまうケースもあるという。

これはまさに需要と供給が釣り合っていないケースだろう。

コンサートなどの座席の価格設定は主催者が決めることである。

では、その価格設定を上げれば、その価格には手を出せないという人が出てきて、需要と供給が釣り合うようになるではないだろうか?

じゃあ、なぜ主催者側はそうしないのか?

いくつか理由を考えてみた。

  1. 裕福でないファンにも来てもらいたいから
  2. あえて倍率を上げることで、チケットのプレミア感を演出したいから
  3. その他

『1.裕福でないファンにも来てもらいたいから』というのは至極真っ当に聞こえる理由だろう。

特に、若者などはそれほどお金を持っていないことが多い。

コンサートのチケットの価格を釣り上げた結果、来場者の年齢層が高くなってしまうということも有りうる。

若者ウケということを考えると、それは望ましいことではないかもしれない。

『2.あえて倍率を上げることで、チケットのプレミア感を演出したいから』というのは、『○○のコンサートのチケットが発売開始後〜分で売り切れに!』などというニュースが宣伝になるという目論見が含まれている。

別のケースでいうとラーメン屋の行列などが該当するだろう。

行列ができている店→人気→美味しいに違いない! と客は思うだろう。

あえて行列をつくることで新たに客を呼び、また行列が長くなるという連鎖である。

ラーメン屋が戦略としてあえて座席数を減らすということもあるくらいだというから、この戦略の効果が絶大であるのは間違いない。

『3.その他』は、今思い浮かばなかったやつである。

コメ欄とかで指摘されたら後で加筆したい。

ブログの役割とは

自分はTwitterというツールを愛用している。

Twitterは140字という制約の中で発信をするツールである。

それに対して、ブログにはそういった制約がない。

文字数制限もなければ、こうして太字で書いたり斜体で書いたりすることもできる。

ブログとTwitter、それぞれ異なる性質を持ったツールをどのように使い分けるべきなんだろうか...