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タカユキの三日坊主ブログ

深淵を覗く時、深淵を覗いているのだ

言語の「正しさ」は何で決まる?

まず、言葉は何のためにあるのか。

言わずともがな、コミュニケーションをとるためである。

例えば、日常生活を送る中で『相手の手元にあるリモコンを渡して欲しい時』があったとする。

そういう時我々は「リモコン取って」と言って、それを聞いた相手は手元にあるリモコンを渡すだろう。

これは『リモコン』という名称のモノがこの二人の間で相互に認識が一致してるから成り立つやりとりなのである。

極端な話、『リモコン』は別にリモコンという名称である必要はなく、『ああああ』でも『いいいい』でも構わないのだ。

コミュニケーションを交わす相互の関係で認識が一致してさえいれば。

 

最近、言葉の誤用や読み間違いについての話題がよく挙がる。

例えば『確信犯』という言葉。

実は

『悪いことであるとわかっていながらする犯罪』

ではなく

『信念に基づいて正しいことだと思い込んでする犯罪』

が本当の意味である、とか。

しかし、言葉の使い方が正しいとか間違っているとかって、誰が決めることなんだろうか?

 

ここで一種の思考実験をしたい。

元々、『正しい』意味で使われていた言葉があったとする。

しかし、年月が経つにつれて、その言葉は『誤用』されることが増えて、最終的にはその言葉を『誤用』している人しか居なくなってしまったとする。

そのとき、本当にその言葉の『正しい』意味を知っているあなたは、『正しい』言葉遣いをする必要があるだろうか?

相手が『誤用』をしているときに、逐一、「それは誤用だよ、本当はこっちの使い方が正しいんだよ」と指摘し続けるだろうか?